写真家 Nick FujimuraのPhotographer's eye

Sony α7シリーズ愛用の写真家のブログです。写真やカメラの事だけでなく生活全般いろいろ呟きます。

闇を凝視する。——Sony FE 70-200mm F4 G IIで歩く、夜の遊歩道

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「完璧なレンズなんて存在しない。でも、最新のソフトウェアは、その物理的な限界を軽々と飛び越えてみせる」

先日、僕は届いたばかりの FE 70-200mm F4 G OSS II を携えて、夕暮れのセンター南から仲町台へと向かった。目的はひとつ。この「F4」という開放値を持つレンズが、光の乏しい夜の散歩道でどこまで通用するのかを確かめることだ。

1. 「F4」という制約、あるいは自由

比較のために、最高峰の標準ズーム 24-70mm GM II も持ち出したが、結果は驚くべきものだった。街灯が作る鋭いハイライトと、深く沈み込むシャドウ。G IIが捉えたその境界線は、GM IIと比べても全く遜色ないレベルで研ぎ澄まされていた。

かつてなら「夜はF2.8(GM)以下の明るいレンズでなければ」と諦めていたシーンでも、今の僕には PureRAW という現代の魔術がある。AIがディテールを維持したままノイズだけを消し去ってくれるなら、重いレンズを我慢して持ち歩く必要はもうないのだ。

2. イタリアンレストランの窓に見た「ホッパー」

散歩の途中、真っ暗な遊歩道の先に、煌々と光るイタリアンレストランが現れた。 僕はそこにエドワード・ホッパーの傑作『Nighthawks』のような、断絶された孤独な光を見た。

「ホッパーのように撮りたい」 そう思ったが、カメラを向けるのが少し憚られる空気を感じ、僕は怒られないよう素早くシャッターを切った。そのせいで構図は理想通りとはいかず、手前の枝が視線を遮っている。だが、その「一瞬の焦り」こそが、「生々しいリアリズム」を宿したようにも思う。

3. PureRAWの衝撃:闇からの救出

ここで、今回の記事で最も見てほしい写真がある。 現像前の「PureRAWをかける前」の状態だ。

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暗闇で無理やり切り取ったその一枚は、本来ならノイズの海に沈み、ゴミ箱行きになってもおかしくない代物だった。しかし、このデータをAIに委ねた瞬間、信じられないほどのディテールが闇の中から浮き上がってきた。

ノイズは消え、店内のグラスの輝きや人々の表情が、まるでそこに居合わせたかのような質感で再現された。

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さらに仕上げは Lumenzia。 窓から漏れる光に温もりを与え、周囲の闇をさらに深く沈めることで、構図の失敗をむしろ「覗き見ているような臨場感」へと昇華させることができた。

結論:技術が「表現」を加速させる

もしGM IIを選んでいたら、その重さと引き換えに、僕は「マクロ性能」や「散歩に持ち出す軽快さ」を捨てていたはずだ。

今回の選択は、光学の限界をAIという知性で補完し、その余白で「表現の自由」を手に入れるという、僕なりの現代的最適解だ。

エリック・ヨハンソンがデジタルを駆使して幻想を構築し、岡鹿之助が緻密な点描で静謐を描いたように。 僕はこれからも、この白いレンズ(G II)を筆にして、都会の片隅に眠る孤独と幻想を射抜き続けようと思う。

 


究極のGMレンズか、合理のGレンズか。--僕が「あえて」F4望遠を選んだ論理的帰結

「完璧なレンズなんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」——。

一方は、ソニーが誇る最高峰、FE 70-200mm F2.8 GM OSS II。 もう一方は、僕の手元に届いたばかりの FE 70-200mm F4 G OSS II

ソニーユーザーなら誰もが一度は憧れる最高峰「GM II」ではなく、僕はあえてこの「G II」を2年間熟慮の末に選択した。そこには、現代のテクノロジーが可能にした「合理的な確信」と「個人的な空想」があったからだ。そうレンズ選びに、「負けという選択肢はない」のです。

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しかし2 x テレコンバーター(SEL20TC)を装着すればこのレンズは実質的に「F8」という暗いレンズになるというデメリットもある。ひと昔前なら、ISO感度の上昇によるノイズの増大を恐れて誰もが迷わずF2.8(GM)を選んだはずだ。

だが、そこで結論を出すのは早い。今やDxO PureRAWというAIノイズ除去ソフトが、そのルールを根底から書き換えてしまったのはご存知の通り。ISO 6400程度ぐらいならAIがディテールを損なうことなくノイズだけを消し去ってくれるのが令和の常識。

つまり「F値が一段、二段暗いことによるデメリット」は、ソフトウェアの力でほぼ無効化できる時代になっているのです。

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上の画像は、2x テレコンを装着してしかもAPS-Cモードにしてちょっとクロップ、実質600mm以上かな? ソニーの600mmレンズって言ったら数百万じゃん。

1. 6100万画素の「凝視」とデジタル的な研ぎ澄まし

もちろん、光学性能の限界値(ポテンシャル)において、GM IIが単焦点に近いキレを持つことは疑いようがないことは百も承知。しかもG IIに2倍テレコンを付ければ、物理的な制約として解像感はわずかに甘くなる。

だが、ここでもPureRAWの恩恵が効いてくる。単なるノイズ除去ではなく、レンズ固有の甘さや収差をプロファイルに基づいて補正し、デジタル的に「研ぎ澄ます」ことができるからだ。α7R5の放つ6100万画素のディテールとAIの補正を掛け合わせれば、パッと見の解像感の差は、極限まで縮まることになる。

2. 宿題としての「凝視」:ハーフマクロが拓くリアリズム

今回、僕がGM IIを差し置いてこのレンズを選んだもう一つの理由は、その驚異的な「寄れる」Macro能力にある。

実は最近師匠である春日広隆先生から、日本リアリズム絵画の巨匠・野田弘志氏の思想を学ぶよう課題を出されている。野田氏は、対象を徹底的に「凝視」し、その細部から「存在の重み」を導き出せと説く。いわゆるリアリズム絵画の領域だ。

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今日撮影した上の梅の花の写真を見てほしい。 望遠ズームでありながら、レンズ先端からわずか数センチまで寄れるこのハーフマクロ性能は、まさにその「凝視」を実践するための最高の武器だ。蕊(しべ)のディテールや花びらの質感をこれほど密に捉えられるのは、GM IIにはない、このレンズだけの特権なのだ。(今日は風が強く枝先の花を撮るのは至難の技、ちょっとピントが甘いのはご愛嬌。笑)

3. テレコンが拓く、岡鹿之助 x Erik Johanssonの幻想世界

F4.0レンズに2 x テレコンに話を戻すと、何故そんな「F8の400mm」という世界に拘るのか。 それは、僕がいつか撮りたい「月」がそこに「在る」というイメージを創造したいからだ。

<ある>{存在する}という言葉でもって、私たちはいったい何を考えているのか、と問われた場合の答えを、私たちは今日、用意しているでしょうか。いやいや決してそんな事はありません。それだからこそ、存在の意味への問いを、改めて提出する必要があるのです。

マルチン・ハイデガー、「存在と時間」序章より

画家の岡鹿之助氏が描いたような、あの幻想的で、どこか静謐な点描のような世界。 Erik Johanssonの騙し絵のような幻想の仮想空間。400mmで月を大きく切り取り、そこにPureRAWとLumenziaによる緻密な階調制御を加えることで、単なる記録写真ではない、絵画的な美学を湛えた「僕だけの月」による表現を構築したい、と。

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上は、先日の都庁の画像にAI Bananaで数秒、月を加えて合成写真を作ってもらった。こんな芸術表現(笑)が簡単にできる時代なので毎日世界で数億枚アップロードされる写真とは違う表現をしたい、とい切なる思いなのだ。

結論:軽快さと表現の自由を手に入れる

重くて持ち出さない数十のレンズより、常にカメラバッグにありマクロから超望遠までを一本でこなす万能性とその軽さ。 今回の選択は、最新ソフトやAIを味方につけて「表現の自由度」を最大化する、僕なりの現代的最適解という訳です。かつてPentaxの大三元レンズという超ヘビーなレンズ群を持ち歩いて疲れ果てた時代はとっくの昔に終わったという実感を改めて感じている今日でした。

www.erikjo.com

 

国立新美術館:Lumenziaで調律する「結び」の階調(後編)

前編では、国立新美術館という「聖地」を舞台に、自分自身に課した撮影のテーマについて記した。 後編では、そこで採取した光の断片を、デジタル暗室(Lumenzia)でいかにして「一つの作品」として結び直したか。そのプロセスを振り返りたい。

自分への課題:ミッドトーンの「粘り」と透明感

今回の現像作業において、僕が自分に課した最大の難問は、「新海ワールドのような透明感」と「建築写真としての重厚なテクスチャ」を両立させることだった。

単にコントラストを上げるだけでは、影は死に、光は飛ぶ。 そこで、ルミノシティマスクの最高峰である「Lumenzia」を使い、階調の徹底的なコントロールを試みた。

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1. 記憶のハイライトを復元する

ガラス越しに差し込む直射日光は、カメラのセンサーにとっては過酷な輝度差だ。 Lumenziaでハイライトの特定のゾーンを指定し、映画のワンシーンのように「眩しいけれどディテールが残っている」状態まで追い込む。これは単なる露出補正ではなく、あの日、現場で感じた「光の温度」を再現する作業だ。

2. 「結び」としてのグラデーション

映画『君の名は。』のキーワードでもある「結び」。 僕は、Lumenziaでシャドウからミッドトーンへの階調を繋ぐ作業を、まさに「結び」だと思っている。 バラバラになった光の情報を、一筋の時間の流れとして結び直していく。Lumenziaの「L3(Midtones)」マスクを駆使し、コンクリートの表面にある微細な凹凸を、触れられそうなほどのリアリティを持って浮かび上がらせた。

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3. 映画的トーンの注入

仕上げに、シャドウ部には深いブルーを、ハイライトの端にはかすかな暖色を。 新海監督が背景美術で多用する、あのドラマチックな色彩の対話を、Lumenziaのカラーマスクで繊細に施した。

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表現者としての自問自答

今回、自分自身で設定した課題に取り組む中で、改めて感じたことがある。 技術とは、単に綺麗にするためのものではない。自分が見たもの、あるいは「見たかったもの」を、他者と共有できる形にまで昇華させるためのフィルターなのだ。

新海監督がアニメーションで、僕がLumenziaで。 手段は違えど、追い求めているのは「一瞬の光の中に宿る、永遠の時間」なのかもしれない。

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反省:この日の撮影は、晴天の夕方、西陽がもろに逆光として差し込む厳しい撮影環境で事前にイメージしていたような画像は撮れなくて帰宅してからかなり落ち込んでしまった。

あ〜、やれやれ、って感じ。撮影現場だけは自分でコントロールできないです。

国立新美術館:光が描く「皮膚」の記憶、新海誠の視点を追いかけて(前編)

Lumenziaというルミノシティマスクを自在にコントロールするソフトを試すのに適切な画像を撮れる場所を探していた。2026年2月7日、六本木、国立新美術館黒川紀章氏が設計したこの巨大な「波」を前にして、僕は自分自身にある課題を課していた。

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それは、「実写の中に、新海誠監督が描くような叙情的な時間軸を定着させる」ということ。

ここ国立新美術館の「サロン・ド・テ ロンド」は、映画『君の名は。』で瀧くんと奥寺先輩がデートをした場所として知られている。スクリーンの中で魔法のように操られていたあの光と影のコントラストを、僕は自分のレンズで、そして「街の皮膚」という文脈でどう解釈できるか。

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自らに課した課題:構造による視線誘導

この日、私が自分に課した撮影テーマの一つは、巨大な円錐形の構造体(コーン)が生み出す圧倒的なスケール感と、そこを横切る「一瞬の光」の同期だ。

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映画では登場人物の心の揺れ動きを代弁していたこの光を、僕は「街の皮膚」の断片として捉え直す。ガラスの波が生み出す幾何学的な影。その影が床に落ちる角度を、一分一秒を待ちながら追い続けた。

瀧くんが見たかもしれない光、僕が定着させる時間

新海監督の描く世界には、常に「光のレイヤー」が存在する。 今回の僕自身の課題は、そのレイヤーをただ撮るのではなく、建築のテクスチャ(質感)として抽出し、そこを歩く人々のシルエットを点景として配置することで、空間にスケール感を与えることだった。

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あの日、あの場所で彼らが感じたかもしれない「時間の重なり」を、僕は今、シャッターを切ることで「光の化石」へと変えていく。

 

「後編」へ続きます。

 

 

 

 

 

街の皮膚、あるいは光の化石について

僕らはいつからこれほどまでに、建物の正面(ファサード)というものに、自分たちの物語を投影するようになったのだろう。

銀座の中央通りから新宿の裏路地まで、東京という巨大な生き物の「皮膚」を丁寧になぞっていくと、そこにはある種の静かな法則性が浮かび上がってくる。それは、伝統が形を変え、光が意味を書き換えていくプロセスだ。

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フランスの哲学者、アラン・ド・ボトンは『旅する哲学』の中で、僕らが場所を移動する本当の理由は「自分自身の内面を更新するためだ」という趣旨のことを書いていた。そうだとすれば、僕がα7R5を担いで西新宿や銀座の街角に立つのは、一種の精神的な再起動のようなものかもしれない。

僕の写真の師匠である春日広隆氏から手渡された課題は、単に「綺麗に撮ること」ではなかった。それは、アンセル・アダムスが追い求めた完璧な階調(ゾーンシステム)を現代のデジタルの中にどう再現し、エドワード・ホッパーが描いたあの「都会の孤独な光」をどう救い出すか、という果てしない問いかけだった。

 

1. 提灯とネオンのあわい(間)で

新宿の路地裏、赤い紅葉が不自然なほど鮮やかに光る場所で、僕は「あわい(間)」という言葉について考えていた。江戸から続く提灯の柔らかな灯と、現代を象徴する冷ややかなネオン。その二つが混ざり合う境界線には、ボトンが旅の途中で見出したような、期待と現実の奇妙なズレが存在する。 Lumenziaの [Col] ボタンを使い、黄色をわずかにアンバーへと沈める。それは、記憶の中にある「正しい夜の色」を取り戻すための儀式だ。

2. 「たけし」から「SIDER」へ

「たけし」の暖簾から「SIDER」のガラス張りへ。 日本の伝統的なお店のファサード(正面)が変化していく様を見つめていると、アンドリュー・ワイエスの絵画に漂う「時間の風化」を思い出す。木製の柱が持つ湿り気と、ステンレスが放つ無機質な光。僕はLumenziaの [Dodge] を使い、ほんの数パーセントの光を特定の場所に置くことで、その素材が持つ「物語」を引き出そうと試みる。

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3. 西新宿、円環の交差点

映画「君の名は」で聖地となったあの西新宿の交差点。 しかし、僕がそこに見たのはアニメーションの叙情ではなく、アンセル・アダムスのモノクロプリントのような、剥き出しの構造体だった。 巨大な円環状の照明を [Sharp] ボタンで研ぎ澄ませ、ビルの窓枠の一本一本にまで鋼鉄の意志を持たせる。エドワード・ウェストンが貝殻やピーマンの中に見た「形の本質」を、僕は新宿のコンクリートの中に見つけたいと願った。

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街を撮るということは、そこに流れる時間を少しずつ切り取って、自分の心の中に並べ直す作業に似ている。 伝統的なファサードが放つ柔らかな光も、現代のガラスが弾き返す鋭い光も、結局のところ、僕という一人の人間に届くときには、同じ一つの「風景」になる。

ボトンはこうも言っている。「場所を変えても、自分という人間を連れていく限り、逃げ場はない」と。 僕が撮る写真は、結局のところ僕自身の投影でしかない。師匠が好む写真家たちの眼差しを、僕はまだ1%も消化できていないかもしれない。でも、不透明度を50%に下げて馴染ませるトーンカーブのさじ加減の中に、ほんのわずかな「真実」が宿ることを僕は信じている。

やれやれ、東京の夜は深い。そして、僕らの旅はまだ始まったばかりだ。

「都市景観シリーズ」中央通りを歩きながら、僕らが失ってきた(あるいはこれから失う)光について

 

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都市を歩くというのは、実のところ、重なり合ったいくつもの時間を一度に踏みしめていく行為に他ならない。

 例えば、銀座の中央通りに立ってシャッターを切るとき、僕のファインダー越しに見えているのは2026年の鮮やかな光だ。しかし、そのレンズの光軸をほんの少し歪ませてみれば、そこには80年前の空襲の焦げ跡があり、さらにその深層には、江戸の運河を流れていた水の記憶が沈んでいる。

 今年、僕は「都市景観シリーズ」として、中央通りや永代通りを歩き、そこに落ちる陰影を記録していこうと考えている。

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 歴史を遡れば、80年前のこの街には今とは全く違う影が落ちていたはずだ。白黒写真の中に閉じ込められた当時の人々は、今の僕らと同じように、何かに悩み、誰かを愛し、そして銀座の風に吹かれていた。江戸時代の地図を広げてみれば、今のビルが建っている場所には、名前も知らない誰かの慎ましやかな暮らしがあった。

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 100年という時間は、個人の人生を飲み込むには十分すぎるほど長いけれど、都市という巨大な有機体にとっては、ほんの一息つくような長さに過ぎない。

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1933年(昭和3年)竣工の明治屋ビル

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 かつてここにいた人々は、何を考え、何を信じ、そしてどこへ消えていったのだろう?  彼らがこの街の舗道に残した足跡は、今ではもう誰にも読み取ることができない。それでも、僕が最新のセンサーで捉える都市のテクスチャの中には、彼らがかつてそこにいたという微かな「予感」のようなものが、ノイズに紛れて混ざっているような気がしてならないのだ。

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僕がDxOのPureRAWでノイズを削ぎ落とし、Lumenziaで光の階調を整えるのは、単に画像を綺麗にしたいからではない。  それは、時間を超えて存在し続ける「都市の真実」を、少しでも純度の高い状態で抽出したいという、切実な願いに近い。

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 このシリーズでは、古い資料に残された街の姿と、僕が今の機材で切り取った現代の景観をべてみるつもりだ。  そこに見えるのは、進化の足跡かもしれないし、あるいは逃れようのない喪失の記録かもしれない。

 僕らは結局のところ、都市という巨大な装置の一部として、束の間の光を浴びては消えていく存在だ。  でも、その刹那的な生に、もし何らかの意味があるのだとしたら――。

 その答えは、ビル風に揺れる街路樹の影や、夜の銀座に反射するカルティエのオレンジ色の光の中に、静かに隠されているような気がする。

 僕はただ、それを一つひとつ、丁寧に拾い集めていくだけだ。

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完璧な解決策なんてどこにもない、でもSony α7R5とα7C ii があればひょっとしたら出口が見つかるかも知れない。

Sony α7Cii


一年に一度しか開かない扉があるように、僕のこのブログもずいぶんと長いあいだ、沈黙を守り続けてきた。時間は音も立てずに僕らの脇を通り過ぎ、気がつけばカレンダーは新しい数字を刻んでいる。

 去年の暮れ、僕は自分自身へのある種の手続きとして、一台の新しいカメラを手に入れた。Sony α7Cii。  それまで僕の手元にはα7R5という、非の打ち所のない精密な機械があった。それはすべてを完璧に記録する。あまりに完璧すぎて、時としてそこに写り込む現実が重すぎるように感じられることさえある。

 カメラを二台持ち歩くというのは、二つの異なる時間軸を同時に生きるのに似ている。  高画素のR5で世界のディティールを徹底的に追い込む一方で、コンパクトな7Ciiを肩から下げ、もう少し軽やかに、呼吸をするのと同じようなリズムでシャッターを切る。それは決して贅沢な悩みではない。僕にとっては、右足と左足の歩幅を揃えるような、ごく個人的で切実な調整作業なのだ。

 今年になってから、僕はいくつかの街を歩いた。

 銀座の夜、カルティエのビルは意志を持った巨大な発光体のようにそびえ立っていた。モノクロームに落とし込んでみると、光と影の境界線はよりいっそう鮮明になり、そこにあるはずの色よりも、そこにあるはずのない静寂の方が強く伝わってくる。

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 新宿の空を仰げば、コクーンタワーや都庁が、まるで巨大な知性の記念碑のようにそびえている。都庁の壁面に映し出されたプロジェクションマッピングを眺めていると、巨大な建造物そのものが一つの人格を持って、僕らに何かを語りかけようとしているような錯覚に陥る。

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 かつて誰かが言ったように、僕らは失われたものを探すために写真を撮るのかもしれないし、あるいは、これから失われるであろうものを繋ぎ止めるために撮るのかもしれない。  どちらにせよ、僕の手元には今、二つの異なる視座がある。

 今年からは、もう少しだけ頻繁に、この場所に戻ってこようと思う。  特別な何かを期待しているわけではない。ただ、新しいカメラのストラップを肩に馴染ませながら、この世界に散らばっている断片的な光を、一つひとつ丁寧に拾い集めていきたいだけなのだ。

 それはおそらく、それほど悪くない試みであるはずだ。

届かない場所にある銀塩の記憶、あるいは僕らが「二台のソニー」で見る夢

 正直に告白してしまえば、僕が本当に求めているのはライカのM3やMonochromが描き出す、あの独特の世界だ。  それはシルクのように滑らかで、どこか艶めかしく、現実よりももっと純粋な「現実」を切り取ってくれる。もし僕がどこかの国のブルジョア階級に生まれていれば、迷わず数百万という対価を払ってその魔法を手に入れていただろう。

 でも、あいにく僕はそうではない。僕らは限られた条件の中で、自分なりの正解を見つけ出さなければならない。  そこで僕は、Sony α7R5とα7Ciiという二台のカメラを手に、その「ライカ的」な深みへと近づくための、静かで孤独な探求を始めることにした。

 もちろん、シャッターを切るだけでライカの画が手に入るわけではない。そこには複雑で、ある種の手仕事のような工程が必要になる。

 まずは、DxO PureRAWの出番だ。  このツールを使ってデジタル特有の無機質なノイズを徹底的に取り除く。それは、古い家の床を丁寧に磨き上げる作業に似ている。余計なものを削ぎ落として初めて、素材が持つ本来の輝きが見えてくるのだ。

 それから、LightroomPhotoshop、そしてLumenziaを使った作業へと移る。  特に輝度マスク(Luminosity Mask)の処理は重要だ。光の階調を細かく分解し、シャドウの底に眠る沈黙や、ハイライトの端に宿る熱量を一つひとつ調整していく。  そうした執拗なまでのプロセスを重ねることで、ソニーの最新鋭のセンサーが捉えた情報量は、少しずつ僕が愛する「艶やかな質感」へと変貌を遂げていく。

 銀座の夜景(Cartier: α7Ciiで捉えた光の粒子を磨き上げ、夜の重厚さを際立たせてみた。20260112_7C24174_DxO-1

  • 新宿のビル群: α7R5の圧倒的な解像度をベースに、ライカのモノクロームのように滑らかに繋がるよう、細心の注意を払って現像したつもりだが、やっぱりダメか。笑


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 完璧なライカそのものにはなれないかもしれない。  でも、テクノロジーと執念を組み合わせることで、僕にしか到達できない場所があるはずだ。一年に一度の更新ではなく、これからはもう少し頻繁に、そのプロセスの断片をここで共有していこうと思う。

 それはおそらく、僕にとってのひとつの「救い」のようなものなのだから。